ご祭神

■ 主神
八幡皇大神  (はちまんすめのおおかみ
※人皇第15代応仁天皇 別の御名 誉田別命
■ 合祀神
天照皇大神  (あまてらすすめおおみかみ
宇佐八幡大神(うさはちまんおおかみ
大山祇大神  (おおやまつみのおおかみ

八幡皇大神について

八幡皇大神として祀っているのは、応仁天皇すなわち誉田別命(ほんだわけのみこと)である。
(仲哀天皇の第三子、母は神功皇后)
承久記には「日本国の帝位は伊勢天照太神・八幡大菩薩の御計ひ」と記されており、天皇大神に次ぐ皇室の守護神、第二の宗廟とされている。
応仁天皇の母である神功皇后は、三韓征伐の帰路にて筑紫の宇美(福岡県糟屋郡宇美町)で天皇を出産した。
出生後、大和に戻り神功皇后の摂政の元で皇太子となり、皇后の死後に15代応仁天皇として即位。即位後は軽島の明宮を造営した。応仁天皇は百済からの帰化人を受け入れ、馬や剣、鏡を献上されるなど、中国の文化を積極的に導入し、日本文化の進歩向上に多大なる貢献をされたといわれている。

由来

 今から1,400年ほど前、根岸の海の沖合に突如金色の光が現れ、みやびやかな音が響き渡った。一体何事であろうと里人は沖合を見つめたが、それが何なのかわからなかった。それから7日目のこと、その光明と妙音が静々と浜に近づき、八幡川の河口近くに何かが着岸した。やがて自然に光明は消え、音も静まったため、当郷の人々が集まってよくよく見ると、汐に打たれて黒光りした神像が亀型の台座に立ち、五尺ほどの枯れ木の根に乗っていた。
さっそく村の守り神として村長の家に祀ったところ、突然一人の童子が物の怪(もののけ)がついたように狂い騒ぎ出し、「我は正八幡なり。この里を鎮護し、里人の苦難を救わんとして、千里の波涛を漂い来るに、ああ知らずして民家に置けり。速やかに当浦われ着岸の芝原に一社を建てて遷すべし。」と言い終わるや、童子は身震いをして大汗をかいたかと思うと、静かに座して物の怪もさめたという。里人がさっそく、八幡川の下流の東岸、現在の滝頭八幡が鎮座する場所にお宮を建て神像を安置したのが始まりである。以後、誰いうとなく八幡宮と尊称し、「根岸村の鎮守」として崇敬、毎年9月15日に例祭を行ってきた。
江戸時代初期の慶安4年(1651年)の検地(土地所有調査)の際、鎮座地が滝頭村となってから約100年後、すなわち明和3年(1766年)に現在地へ遷座、例祭も8月15日に改め、その後明治41年に三社(天照皇大神、宇佐八幡大神、大山祇大神)を合祀し、今日に至っている。

根岸八幡神社の由来

御神徳

  • 厄除開運
  • 海上安全
  • 安産守護
  • 商売繁盛